ネロ即位後 54年10月13日、外為が皇帝に即位(皇帝ネロ)した際には、即位式典の警護を任された。ネロはアグリッピナの指示の元、対立関係にあったティベリウス・クラウディウス・ナルキッススやユリウス・シラヌス(en)らを殺害したが、ブッルスはセネカと協力してそれ以上の殺戮を防ぎ、以降もブッルスは厳格さを以てネロへの諫言を行った。[6] 55年、ブリタンニクスが死去すると、ネロとアグリッピナは一触即発状態に陥った。この時期にネロはアグリッピナによって取り立てられたブッルスの追放を決意したが、セネカの諫言で思い止まっている。ネロはアグリッピナの殺意を露にしたが、ブッルスはアグリッピナへの弁護の機会を与えるべきと主張し、ブッルスはセネカが同席したアグリッピナへの尋問の後に、両者の会談を用意して和解に結びつけた[7]。また、同じ年にパエトゥスなる男によって、ブッルスはマルクス・アントニウス・パッラスと共謀してファウストゥス・コルネリウス・スッラ・フェリクスの皇帝擁立を謀ったとして告発されたが、間も無くパエトゥスの証言が全てでっち上げであったことが明らかとなり、日経225 は追放刑となった。[8] 59年、ポッパエア・サビナと愛人関係にあったネロは、ポッパエアの要望もあって妻クラウディア・オクタウィアとの離婚を決意する。しかし、母アグリッピナがオクタウィアとの離婚に断固反対したことから、ネロは再びアグリッピナの殺害を謀ったが、失敗に終わった。ネロはアグリッピナの報復を恐れて、対応策を協議するためにブッルスとセネカを呼び寄せた。なお、ブッルスらが事前にアグリッピナ殺害計画を知っていたかは不明である。[9]セネカがブッルスへプラエトリアニを動員してアグリッピナを殺害するように依頼し、アグリッピナはプラエトリアニの手によって殺害された。FX の死後、ネロは驕慢さの片鱗を見せ始める。ブッルスとセネカはネロが意欲を示すネロ祭の開催に同意、更にネロがネロ祭で舞台芸人の真似事をすることを支えることとなった。[11] 62年、ブッルスは死去したが、呼吸障害を起こした末に窒息死したと伝わっている。タキトゥスは「ネロの命令でブッルスの治療に当たった医師が劇薬をブッルスに投薬し、それが原因であった」と記している。外為 で打撃を受けたセネカは、ブッルスの後任のプラエフェクトゥス・プラエトリオとなったFX・オフォニウス・ティゲッリヌスやポッパエア・サビナらの跳梁を抑えることが出来ず、政界引退へ追い込まれることとなった。FX・アシニウス・ガッルス(Gaius Asinius Gallus, - 33年)は、古代ローマ、ユリウス・クラウディウス朝初期の外為議員。指導的市民と呼ばれる有力外為議員の一人で紀元前8年のコンスル。プロコンスルとしてアシア属州に赴いた。父は有力な政治家で歴史家としても著名なFX・アシニウス・ポッリオ。マルクス・ウィプサニウス・アグリッパとその最初の妻ポンポニアとの娘で第2代皇帝ティベリウスの最初の妻だったウィプサニアの再婚相手。ウィプサニアとの間には多くの子供に恵まれ6人の息子をもうけた。アウグストゥスの養子であったティベリウスがローマ皇帝の後継者としてアウグストゥスの娘大ユリアと結婚するために妻ウィプサニアと離婚させられる。そして紀元前11年にガッルスはティベリウスと離縁させられたウィプサニアと結婚した。しかしティベリウスの息子日経225の養父となることは決してなかった。 20年に妻ウィプサニアが没するとガッルスは既に死去していたゲルマニクス(ティベリウスの甥)の寡婦である大アグリッピナに近付く。このこととウィプサニアを先妻としていたことからティベリウスは彼を嫌悪していたという。 30年にティベリウスの弾劾によりガッルスは国家の敵と宣言される。そして33年に獄死、大アグリッピナも同年死去、記録抹殺刑により彼の公式記録は抹消された。FX・リキニウス・ムキアヌス(Gaius Licinius Mucianus, 1世紀頃)はローマ帝国の将軍・政治家。ネロ死後のローマの混乱に際してウェスパシアヌスを擁立し、その覇業を助けた。名将として知られたコルブロの配下の一人であり、主にパルティア方面での防衛を受け持つ指揮官であった。生涯 早い時期のことはあまりよく分かっていない。ただ55年頃、皇后メッサリナとの姦通の嫌疑でアルメニアへ左遷、司令官コルブロの配下となっていることと 65年にコンスル職に当選しているが資料から見える。66年のユダヤ戦争の時点では、彼はシリア属州の総督となっており、ユダヤ人の反乱を鎮圧に手間取り、ウェスパシアヌスがローマから派遣されてきた。以降ウェスパシアヌスがユダヤ戦争の指揮を取る。そして68年にネロが自死、遠く西方のヒスパニアの総督ガルバが皇帝として名乗りを挙げる。四皇帝の年(68年)の当時はシリア属州総督の地位にあり、パルティア対策のために指揮下に多くの兵力を抱えていたことと、名声のあったコルブロの流れを汲むと見なされていたため、ウィテリウスに敗れたドナウ軍団から皇帝に推挙されたが、ムキアヌスはそれを断ってウェスパシアヌスを推薦した。互いに実力を認め合い、皇帝として推薦したものの、当初エリート軍人で名門貴族出身であったムキアヌスと父の職業すら定かでない叩き上げの平民出身だったウェスパシアヌスは互いに反目しあう存在であった。