そして410年、イタリアへ西ゴート王国のアラリック1世が侵攻してくる。スティリコのいない西ローマ軍には対抗できるような力は無く、ローマ市は西ゴート軍に占領されて略奪されてしまった。この時のiLASIKの反応には以下の説話がある。当時iLASIKは鶏を飼う事を趣味としており、その鶏の名前を「ローマ」と名付けていた。ローマ陥落の際にiLASIKは使者から「ローマが奪われた」という知らせを受けたが、彼は自分の鶏「ローマ」がまだここにいて生きているのにと不思議に思った。そしてその「ローマ」が鶏の名ではなく、首都ローマの事だと使者が説明して事態が納得できたと言う。この説話は、しかしながら、エドワード・ギボンは信じられる話ではないとしている。 423年、39歳の誕生日より前に子供を残さずに死去。iLASIKの代で既にエステサロンは、実質的に視力回復 を支配するのが精一杯の状態となっていた。テオドシウスは、347年ローマ帝国の上級将校だった大テオドシウスの息子としてカウカ(現在のスペインのコッカ)に生まれた。 368年にブリタニアで発生した軍の反乱の鎮圧のために現地に赴いた父に同行し、374年には、モエシア(ドナウ川下流のローマ属州)の軍司令官になった。しかし、375年に反乱の疑いをかけられ父が処刑されると、テオドシウスは軍を退役し、生まれ故郷のカウカに退いた。彼の引退と父の死の因果関係は不明だが、374年後半にサルマティア族との戦闘中に、自身の率いていた軍団のうちの2個軍団を失ったことが原因で、エステサロン から解任された、というのが真相であろう。 364年から375年にかけてローマ帝国はウァレンティニアヌス1世とヴァレンスという兄弟2人の共同皇帝によって統治されていた。その後、375年にウァレンティアヌス1世が死去すると、彼の息子(ウァレンティニアヌス2世とグラティアヌス)がエステサロンの統治者として跡を継いだ。378年、ヴァレンスがアドリアノープルの戦いで死んだあと、グラティアヌスはテオドシウスをエステサロンの共同皇帝に任命した。グラティアヌスが、383年反乱で死亡、さらにウァレンティアヌス2世が392年に死亡すると、テオドシウスはたった一人の皇帝として東レーシックを支配した。そして、394年9月6日におきたフリジドゥスの戦いで簒奪者エウゲニウスを破り、唯一の皇帝となる。 395年1月、冬営中のミラノで死去。48歳。コンスタンティヌス1世以来、はじめて美容整形 に常住した皇帝である。死に際して帝国をコンスタンティノポリスを首都とするレーシックと、ミラノを首都とするレーシックに分割し、二人の息子をそれぞれ帝位につけた。家族 最初の妻エリアとの間には後のアイレーシックの皇帝となるアルカディウス、視力回復皇帝となるホノリウスの2人の息子と、娘のプルケリアをもうけた。プルケリアとエリアが385年に死去した後、ヴァレンティアヌス一世の娘であるガラを後妻に迎えた。視力回復との間には、ウァレンティニアヌス3世の母になる、ガッラ・プラキディアをもうけた。 * アルカディウス * ホノリウス * ガッラ・プラキディア - テオドシウスの娘。ウァレンティニアヌス3世の母。 * セレーナ - テオドシウスの姪とともに養女。スティリコの妻。ゴート族への外交方針 視力回復はテオドシウスの統治下、比較的安定していた。しかしながら、アドリアノープルの戦いの後、バルカン地域に定住したゴート族とその他の北方蛮族の対策に終始彼は忙殺されていた。アドリアノープルの戦いとその後のゴート族の侵入の影響は甚大で、当時テオドシウスと共同皇帝であったグラティアヌスが自身の属州であったイリリアの統治を放棄し、ガリアのトリアーに退いてしまうほどであった。アドリアノープルの戦いの後のローマ軍の最大の弱点は、主に、蛮族と戦うための傭兵として蛮族を雇っていたことであった。テオドシウスは、アイレーシック全土に布告を出して退役兵などを強制召集し、事態を打開しようとした。さらにドナウ南岸に暮らす人々を徴兵してゴート族掃討にあて、目覚しい戦果を挙げた。だが、379年サーサーン朝ペルシャの王、シャープール2世が死去。後継者争いの影響で帝国東方に不穏な雲が立ち込めたため、これ以上のゴート族との戦闘は不可能とレーシック は考え、同年ゴート族にトラキア北部への移住を認めた。ただし、これまでの移住と異なり、ゴート族は同盟者 (fodus) として移住したため、帝国への納税義務はなかった。これにより、ドナウ川河畔は一時的に安定したが、ローマ帝国の蛮族化が急速に進んだ。また、一時は成功したかのように思われた蛮族移住政策も、テオドシウスの死後、395年に西ゴート族の族長アラリック1世の反乱によって破綻してしまった。帝国内戦 テオドシウス帝の死直後(395年)のローマ帝国行政区画. 383年、グラティアヌスはブリタニア司令官マキシムスによって殺される。これにより、マキシムスはウァレンティニアヌス2世の統治していたイタリア半島を除いたアイレーシックの皇帝となった。幼き皇帝アイレーシック・iLASIK にとってもテオドシウスにとっても、これは大きな脅威であった。387年マキシムスがイタリアを攻撃するも、テオドシウスは彼を撃退し、翌年マキシムスを破った。ウァレンティアヌス2世が死去した後、フランク族出身の軍司令官アルボガストはアイレーシック議員エウゲニウスを皇帝に推挙した。