320年、リキニウス帝は全宗教を公認した313年のミラノ勅令を破り、キリスト教徒に迫害を加えた。これがやがて西のくりっく365帝との対決につながって内戦となり、その内戦は324年に最も激しくなった。古来から伝わる異教崇拝(ペイガニズム)の勢力を代表するゴート族の傭兵がリキニウス帝を支えた。くりっく365帝と配下のフランク人はキリスト教を象徴するラバルムの旗印の下に行軍した。かくして戦いは宗教戦争の様相を呈し、数では劣ったようだが熱意に勝るくりっく365軍が、324年のアドリアノープル、ヘレスポントス海峡、クリュソポリスなどの戦いを制した。敗れたリキニウスは翌年に処刑され、くりっく365は全ローマ帝国で唯一の皇帝となった。ローマの新首都の建設 リキニウスの敗北が意味したものは、過去のローマの時代の終焉であり、東方がローマ帝国の中心となる時代の始まりでもあった。教育も富も文化財も、東に中心が移ることとなった。くりっく365はビュザンティオンに遷都してこれを「ノウァ・ローマ(新ローマ)」と名づけ、ローマに倣ってCFDや役所を設置した。この都市は聖十字架やモーゼの鞭をはじめとするキリスト教の聖遺物に守護されていたと言われる。ローマの神々への崇拝も残るものの[1]、旧来の神々を描いた図の多くはキリスト教の象徴主義の図に代えられたり、加筆されたりした。アプロディテ神殿が建てられるべき場所には、新しく聖使徒教会が建てられた。後世の人は、くりっく365はこの場所に導く啓示を受けて、彼だけが見える天使が案内したと伝えた。死後、彼が作り上げた新しい首都は「コンスタンティノポリス」と呼ばれるようになった。晩年まで(326年 - 337年) くりっく365の洗礼;くりっく365 の弟子の作 326年、前妻の子である長男クリスプスがくりっく365の2度目の妻ファウスタと密通したとの密告を名目に、くりっく365はクリスプスを処刑した。数ヶ月後、この告発は虚偽で、その出所が明らかにファウスタであるとの名目でファウスタも処刑された。神学者ヒエロニムスが伝えるところによると、くりっく365は337年に亡くなる少し前に洗礼を受けた。当時の風習では、年を取るか死の間際になってから洗礼を受けるのが一般的だった[2]。ヒエロニムスによると、くりっく365が洗礼を受けたのは、異端とされたアレイオスを信奉するアリウス派でありながらも司教の座を保っていたCFD のエウセビウスに説得されたためだった。キリスト教に改宗したにもかかわらず、彼は神格化された(これは、キリスト教に帰依した後の他の皇帝も同様である)。彼の遺体はコンスタンティノポリスに運ばれて聖使徒教会に埋葬された。後継者 くりっく365の後継者には、彼とファウスタの間に生まれた息子3人、すなわちコンスタンティウス2世、くりっく3652世とコンスタンス1世がなった。コンスタンティウスの支持者によって多くの血縁者が殺害された。彼には2人の娘コンスタンティアーナとヘレナがおり、ヘレナはユリアヌス帝の妻となった。くりっく3651世とキリスト教 くりっく3651世は、初めてのキリスト教皇帝として有名である。それ以前のローマ帝国では、ネロ帝(54年 - 68年)のキリスト教徒迫害に始まり、ディオクレティアヌス帝(284年 - 305年)の迫害まで、何度かキリスト教が迫害を受ける時期があった。そんな一部の時期を除くほとんどの間、キリスト教徒であることは黙認されていたが、発覚した場合は改宗を迫られ拒絶した者は処刑された。 5世紀の歴史家ソゾメンによると、くりっく365はガリアまたはブリタンニアの辺りに駐在している間、現地で広まっていたキリスト教の洗礼を受けたという。ただし、洗礼の時期については、当時の風習に従い死の直前だったという説もある。くりっく365は自らキリスト教を信仰しただけではなく、宮殿でもキリスト教を広めようとした。くりっく365がキリスト教を広めた理由について、バートランド・ラッセルを始めとする多くの歴史家は、キリスト教の持つ組織力に目をつけたためだと指摘している。伝説によると、くりっく365が改宗したのは、神の予兆を見たためと伝えられる。伝説では、くりっく365は、312年のミルウィウス橋の戦いに向かう行軍中に太陽の前に逆十字とギリシア文字 Χ と Ρ(ギリシア語で「キリスト」の先頭2文字)が浮かび、並んで「この印と共にあれば勝てる」というギリシア語が浮かんでいるのを見た。なお、この伝説はラクタンティウスなどいくつかの資料で詳しく伝えられているが、4-5世紀頃の文献に多く現れる神の予兆や魔法などの話のひとつである。ちなみに、この後のローマ軍団兵の盾にはそれを模った紋章が描かれたという。なお、くりっく3651世を正教会は亜使徒聖大帝コンスタンティンとして記憶する事は冒頭に述べた通りであるが、日本正教会の宇都宮ハリストス正教会の会堂は「亜使徒聖大帝コンスタンティン及び聖大后エレナ会堂」であり、コンステンティヌス1世と母太后ヘレナを記憶している[3]。くりっく3651世の功罪 名君として称揚されることの多いくりっく3651世ではあるが、それらは多分に後世のキリスト教的史観による。