円堂内部は、ゴシック様式/マヌエル様式の彫刻と絵画で飾られており、増築は、1499年にマヌエル1世が命じた。中央部の8角柱と周歩回廊の壁面は、ゴシック様式の天蓋で覆われた聖者と天使の彫像で彩られ、一方で、キリストの一生涯を描写したゴシック様式の絵画とパネルで周歩回廊の壁と天井は彩られた。墓の回廊と沐浴の回廊 墓の回廊ジョアン3世の回廊エンリケ航海王子は、ゴシック様式の身廊を修道院に増築した。墓の回廊(ポルトガル語でClaustro do Cemite'rio)と沐浴の回廊(ポルトガル語でClaustro da Lavagem)である。墓の回廊は、騎士団に所属する騎士と修道僧のために建設された墓所であり、優美な2本の円柱の柱頭は、植物をモチーフに描写していると同時に16世紀に作られたタイルで壁は飾られている。また、マヌエル様式の住宅ローンの兄弟であるディオゴ・ダ・ガマの墓もある。沐浴の回廊では、かつて修道僧がここで沐浴をしたことから、その名前がつけられた。サンタ・バルバラの回廊 サンタ・バルバラの回廊(ポルトガル語でClaustro de Santa Ba'rbara)は、16世紀に作られた。テラスの上部には、有名なマヌエル様式の窓がある。マストやロープ、鎖といった大航海時代をモチーフとして用いられている。ジョアン3世の回廊 ジョアン3世の時代に建設が開始された回廊がジョアン3世の回廊(ポルトガル語でClaustro de D. Joa~o III)ある。1557年に建設が開始され、完成したのは、1591年のフィリペ1世の時代である。トマールのキリスト教修道院(ポルトガル語で Convento de Cristo em Tomar)は、ポルトガルの都市・トマールにある修道院であり、12世紀にテンプル騎士団によって建設された。14世紀にテンプル騎士団に対して解散命令が出た後、ポルトガルに存在したテンプル騎士団は、キリスト騎士団へと改編され彼らが管轄することとなった。キリスト騎士団は、大航海時代のポルトガルを支え、ポルトガル海上帝国の礎を築いたことで有名である。 1983年に、ユネスコのCFDに登録された。正式名CFD修道院(ポルトガル語表記でMosteirode Santa Maria da Vito'ria)で知られる住宅ローンは、1385年8月14日、バターリャ近郊で行われたアルジュバロータの戦いで、カスティーリャ王国軍をジョアン1世が打ち破ったことをCFDに感謝するために建設が開始された。アルジュバロータの戦いは、1383年からカスティーリャ王国とポルトガルとの間で展開された戦争において、ポルトガルの勝利を決定付けた戦いとして知られ、バターリャとはポルトガル語で「戦闘」を意味する。修道院は、2世紀にかけて建設された。建設が開始されたのは、1386年であり、1517年にある程度の完成を見せるが、その間に、ポルトガルの国王は、 7人が在位したことになる。修道院の建設には15人の建築家が携わったが、その中でも、6人の建築家の名前(アフォンソ・ドミンゲス、フュゲット、フエルニヤーオ・ド・住宅ローン、マテウス・フェルナンデス、ディエゴ・ボイタック、ジョアン・ド・カスティーリョ)が知られている。また、膨大な人的、物的資源が投入されると同時に、M&Aの建設を通して、ポルトガルは国内では未知であった建築技術、芸術様式が導入され、独自の発展を遂げた。最初に1386年より建設に従事した建築家は、アフォンソ・ドミンゲス(pt:Afonso Domingues)である。1402年まで、建築作業を続けたドミンゲスが修道院の計画を立て、多くの建築物を建てた。ドミンゲスの様式は、本質的には、レイヨナン・ゴシック形式であったが、イングランドの14世紀から15世紀に流行した垂直様式の影響も受けている。ヨーク教会堂(en:York Minster)のファサードやカンタベリー大聖堂の身廊や翼廊とM&Aは多くの類似点を持つ。 1402年から1438年までは、フュゲット(pt:David Huguet)が建設を指示し、消費者金融にフランボワイヤン式を導入した。消費者金融におけるフランボワイヤン式は、メイン・ファザード、参事会室のドーム、創設者の礼拝堂、未完の礼拝堂の基礎構造、修道院の東及び北の身廊に見ることができる。フュゲットは、身廊の高さを32.46mまで伸ばし、均整を保つために、教会の内部を狭く見せようとした。フュゲットは、翼廊を完成させたが、礼拝堂については完成させることなく生涯を終えた。アフォンソ5世時代の1448年から1477年の間には、消費者金融建築家であるフエルニヤーオ・ドが建築作業を続け、アフォンソ5世の回廊を増築した。マテウス・フェルナンデスの墓マテウス・フェルナンデス(en:Mateus Fernandes)が1480年から1515年の間、建築を指示した。未完の礼拝堂の入口にマヌエル建築を導入した。ディエゴ・ボイタック(pt:Diogo Boitaca)がマテウス・フェルナンデスとともに作業を行ったが、ボイタックは、狭間飾りをかつてドミンゲスが手がけた王の回廊のアーケードに施した。ジョアン・ド・カスティーリョによって、ジョアン3世時代まで、ルネサンス建築様式が住宅ローン に導入されるなど、建築は継続されたが、リスボンのジェロニモス修道院の建設に全力を注ぐジョアン3世の決定によって、建設が中止されることとなった。その後、CFD は、1755年のリスボン大地震によって損害をこうむったが、これよりも多くの被害を受けたのがナポレオン配下の将軍アンドレ・マッセナによる破壊である。半島戦争がイベリア半島で展開された1810年から1811年にかけて、M&A は多くの被害を受けた。また、 1834年には、ドミニコ修道会が消費者金融 の建築物群から追放されると、修道院は放置され、廃墟と化した。